光とO&Oの信号の話。

『O&O』を聴いていたら「信号は青へと変わるの」って歌詞が聞こえてきて、おや?って思った。

「信号」って言葉が『光』にも出てくるじゃないかと。「信号はイエロー」って。

同じアルバム内だしもしかしたら繋がってる?と思って、いつもの癖で深読みしてみました、というお話です。

 

 

『光』の黄信号

 

まず『光』の歌詞の中で「信号はイエロー(=黄信号)」が何を表してるのかなって考えを巡らせてみる。

結論から言うと、「止まっちゃダメだから、そのまま全力で進め」の意味だと考えている。

 

黄信号のイメージといえば

「もうすぐ赤信号に変わるから注意してね!」って意味でしょ?

という感じだと思うのだけど、実は交通ルールにはこれは正しくはない。

 

ちょうど最近自動車の教習所に通っていて習ったばかりなのだけど(笑)、

黄信号の意味は正確には止まれ(※安全に停止できない場合を除く)」。

だから「まだ赤ではないし行けそうだから突っ切っちゃえ!」は本当はアウト。

ただしここでポイントになるのが(※)の部分。

車は急には止まれないし、黄信号に従って止まっちゃうとかえって危ない場合がある。

急ブレーキとか、交差点のど真ん中で止まっちゃったりとか。

こういう場合はしょうがないから通っていいよ、ってのが黄信号そのものの意味。

 

以上を踏まえて『光』の「信号はイエロー」を考えてみる。

 

 今すぐ逃げろ

 さもないと消える

 信号はイエロー

 

「信号はイエロー」の前の部分では、「逃げろ」と言っている。

プラス、逃げないといけない理由(=「消える」)をつけて警告している。

つまり「信号は止まれって言ってるんだけど、それに従って止まったら危険(=「消える」)だから止まらずに進め(=「逃げろ」)」ってのがこの3行の大体の意味かなと。

 

歌詞全体の文脈を読んでも、“僕たち”は黄信号で止まらずに進んでいる。

進むのは、何かから逃げているから。

進むのは、止まったら危険だから。

と整理しておく。

 

 

じゃあ、一体何から逃げてるの?

止まったら危険ってどういうこと?

ってなってくる。

 

何から逃げているのか?

これは「僕を飼い慣らそうとする世界」からだと思う。

と、『スパークル』の「まだこの世界は 僕を飼い慣らしてたいみたいだ」がわかり易いから持ち出したけど、ラッドの歌詞の中で「世界」ってキーワードは頻出で。

たとえば『君と羊と青』の「世界が僕らを置き去りにするから」とか、その「世界」です。

挙げればキリがないので各自連想してもらうとして…どうもラッドの歌の中での「世界」は、生きづらさを感じる環境みたいな感じで歌われているということに気づくはず。

世界を憎むってほどじゃないけど、なんかこう、「ちくしょう世界め!」みたいな…(笑)

 

先に挙げた『スパークル』なんかでもそれは顕著で。「(僕を)飼い慣らす」って決してポジティブな言葉ではないし。

なんか飼われてるみたいでどうにも窮屈だな、抑圧されてる感じがするな、生きにくいな、っていうのが、ラッドの歌の中での「世界」に対する一印象なのではないかと。

 

 

でも『光』には「世界」なんて言葉は出てこないよ?と言われるかもしれないけど、

 

 私たちは光った ゴミたちの木漏れ日で

 

この歌の中での「光る」はざっくり=「生きる」だと解釈していいと思う。

その根拠について喋ってたらキリがないので、お察しということで。たぶんそんな感じだよねって。

 

“僕たち(私たち)”が生きる場所は?

――もちろん世界の中。

 

じゃあどんな世界なの?

――ゴミだらけの世界。

 

「ゴミの木漏れ日の中で光っている」=「世界の中で生きている」という解釈です。

この歌でも「世界」がどちらかと言うとネガティブイメージで歌われていることがわかる。

「正しい街に/やけに1人取り残されて」とかにも表れてるな。

なんだか自分たちにとって生きづらい、あまり美しいとは言えない世界。

 

 

そんな世界から“僕たち”は逃げる。

さもなくば、世界に飼い慣らされてしまう――まるで家畜みたいに、何か大きな力に操作されるままに、自分の意志もなくただ息をして死んでいくみたいになってしまうから。

美しくない世界に自分も染まってしまうから。

自分のために生きられなくなるから。

美しく光れなくなるから。美しい光が掻き消されてしまうから。

それに危機感を感じる、危険だ、逃げよう、止まっちゃダメだ。

という具合。

 

つまり「ゴミたちの木漏れ日で光った」と歌う『光』は、「僕を飼い慣らそうとする世界の中で美しくもがく」と歌う『スパークルやその他の歌と本質的に同じことを歌ってるんだと思うわけです。

 

 私たちは引っ張った 繋がれた首飾り

 

まるで家畜みたいに、大きな力が自分たちを首飾り=鎖で繋いでおこうとする。

それを引きちぎろうとする私たち。

僕たちを飼い慣らそうとするする世界と、その中でもがく僕たち。

 

そして“僕たち”を飼い慣らし抑圧しようとするのが世界だとすれば、黄色く点灯して「止まれ」と“僕たち”を引き留めようとする信号=世界と解釈してもいいんじゃないかなと。

 

 

 

『O&O』の青信号

 

だらだらと喋ってしまったけれど『光』の話はひと段落。

『O&O』に入ります。

 

 晴れた道で君を思えば

 信号は青へと変わるの

 

こっちでは青信号。

交通ルール的には、青信号の意味は「進んでもいいよ」。

「進め!」という命令ではないことに注意。

素直に進んだらかえって危ない場合だってあるからね。

 

『光』では信号は「止まれ」と“僕たち”を抑圧しようとするものだったけど、今度は「進んでいいよ」って肯定している。

信号=世界って話はしたばかりだけど、なんだか態度が全然ちがう。

 

 

なんでそんな変化が起きたのか?きっかけは何?

『O&O』における“君”の存在です。

 

「晴れた空で君を思えば」だから、“君”のおかげで青信号になる、つまり“君”のおかげで“僕”は世界に肯定されるんです。

「これだったか僕が この世に生まれた意味は」なんて歌ってるんだから、すごいチープなまとめ方をすると「君と出会ってから、美しくないと思ってた世界が輝いて見える!」っていう感じの歌なんだよね。

 

 

さらに「意味」って表現は『光』にも出てくる。

 

 私たちは光った 意味なんてなくたって

 

生きる(=「光る」)意味なんて分からない、むしろ無いのかもしれない、それでも自分たちを飼い慣らそうとする世界に操作されるままに生きるのは嫌だ。だからもがいて、逃げるんだ。

そんなふうにもがいていたところで君と出会って、自分の生きる意味が分かった気がする。

 

つまり信号が黄色から青へと変わるということは、自分の生きる意味を見つけた瞬間なんじゃないだろうか。

家畜を鎖に繋ぎ番号だけで管理するように、抑圧し、自分の存在を透明化しようとする世界だったけれど、“君”がその掻き消されそうだった光を掬い上げてくれた。

すると途端に、自分がこの世界に生きる意味を見出せた気がする。

自分が生きている世界に存在を肯定されたような気持ちになる。

だから、君を思えば信号は青へと変わる。

『O&O』って、そんな歌でもあるのかもしれない。

 

 

と、長々と喋ってきたけれど、『光』と『O&O』の繋がりを彼らがここまで意識して作り歌っているのは正直分からない。

というか、今回は分かりやすかったので敢えて喋ったけど、ラッドの歌はすべて繋がってると思ってる。

それがパッと見で分かりやすいか、ちょっと考えないと分からないかもという差があるだけで。

よく考えればそれは当たり前のこと、だって同じバンドの同じ作曲者という親から生まれ、その遺伝子を引き継いでいる子供たちなんだもん。

『光』と『O&O』は、そんな兄弟達のなかでも、特によく似た特徴を持つ子達なのかもね、って話でした。目かな。口かな。